赤間山の烽火台跡 (ヒータティヤー)

更新日:2024年03月26日

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赤間山の頂上に設置され碑文が取り付けられた烽火台の写真

航海を見守る古の狼煙台

 江戸時代、1624年琉球王府は、通信の手段として始めて烽火(のろし)を考え、中山支配下の各間切(まじり)や周辺の島々に烽火台を建てました。その中の一つが、現在赤間山の頂上に残っている烽火台跡です。島々(久米島、慶良間の島々、渡名喜島、伊平屋島、粟国島、伊江島等)に進貢船(しんこうせん)や冊封船(さっぷうせん)が近づいたとき、烽火をたいて、つぎつぎと伝え、最後は、この赤間山の烽火台から浦添や小禄に伝え、そこから首里王府に連絡したのです。
烽火のたき方としては、進貢船1隻のときは、一筋の煙、2隻のときは、二筋の煙、あるいはどこの船籍か不明の時は、三筋の煙など、その状況によっていろいろ烽火のたきかたがあったのです。唐船の時代、慶良間の島々は地理的に那覇、首里に近く、重要な通信基地でした。
進貢船が琉球に帰るとき、順風のときは、まず久米島に接近し、その後、慶良間に来て停泊、風待ちをするか、あるいは、慶良間の北側を通って、那覇に直通するコースが順調な航路でした。風によっては、尖閣列島から八重山諸島を通り、島伝いに北上してくる場合もあり、又、伊平屋、粟国、渡名喜を回り、座間味、渡嘉敷と近づいてくるコースもありました。
これらの島々には、どの島にも烽火台があり、そこには番人もいて、島伝いにつぎつぎ烽火をたいて、進貢船の接近を知らせていったのです。冊封使をのせた冊封船が来ると、王府は接待をするため、いろいろな準備をしなければなりません。いくらかでも事前に知らせる必要があったのです。現在のような定期船ではないし、進貢船が風待ちで2、3か月も阿護之浦(あごのうら)に停泊する場合もあった時代でした。
明治、大正期に入ってからは、名護に「白い煙、黒い煙」として有名な烽火台があるのと同じように、この赤間山のヒータティヤーは、大和に行く子弟の見送りや、軍人の見送りのため、這根樹(はいねじゅ・ヒッチェーシ)の葉をたき、白い煙を出し、見送りをしたのです。そして大和旅の安全と戦地に向かう軍人の無事帰島を祈りました。

赤間山ヒータティヤー碑文

『かつて慶良間は渡唐船の航路にあたっていた。記録によれば、首里の王府にいち早く船の帰りを知らせるため、この山頂で篝火を焚き小禄方面に連絡していたことが知られる。また、明治以降においても、島を離れて遠方に赴く村の男たちの見送りに際し、篝火を焚いたり狼煙を打ち上げたりして壮途を祝い旅路の安全を祈ったと語り継がれている。 昭和57年建立 『国立沖縄青年の家』

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