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事例

慶良間(きらま)ヒッチェーシ

慶良間(きらま)ヒッチェーシ

 唐にいくときにね、途中で嵐に遭ったので港に引っ返してきたら、船が海岸の岩に打ちつけられて壊れそうになったときね、このヒッチェーシというのは海岸ばたにある物だからね、船がヒッチェーシに寄りかかり、船も割れずにたすかってね。それで、慶良間ヒッチェーシ(※1)は、そのように船を助けたから、「慶良間ヒッチェーシや、嘉例吉(かりゆし)だ。」と言っていたよ。

 昔はチュラガサー(※2)がはやると、40度余りの熱が出て助かることなく死んだそうだ。それでヒッチェーシは嘉例吉の草だから、病気が治るように願うために、慶良間ヒッチェーシや、嘉例吉るでむぬ[慶良間シッチエーシは幸運な草だから]大和チュラガサーただ道連り。
[天然痘]よただの道連れで軽く通 ってくれ]]という歌を作ったそうだよ。

字渡嘉敷・富里数代(明治35年8月12日生)昭和54年8月26日聴取
※1.慶良間ヒッチェーシ
海岸などに群生するオキナワハイネズ。
このいわれから、「航海から無事引き返せるように」と、引き返すという意味の、「ヒッチェーシ」と名付け、慶良間の船頭達は、この木の枝を船の船魂様を祀る神棚に供え、航海の期間この木が枯れることがないように度々水を換えて航海したということである。
※2.チュラガサー
天然痘のこと。明治から大正にかけて沖縄の各地で天然痘が大流行し、渡嘉敷島でも、多くの死者があった。

解説

 琉球王国は、周辺諸国と交易によて栄えた。特にアジアの文化の中心地である中国との交易は、多くの富を琉球王国にもたらした。その中国との交易のために沖縄から派遣された船を信貢船といい、船頭と船員の多くは渡嘉敷村と座間味村の慶良間諸島の人達だった。
当時の船は帆船であったから、中国や東南アジアに向かう船は北風の吹く季節に沖縄を出発し、南風の吹く季節に沖縄に帰ってきた。この進貢船や琉球王が即位 するときに中国の使節を乗せてやって来た御冠船も那覇港に着くと、座間味島の阿護の浦の唐船グムイに繋留され、その時期の船の修理と次の出航の準備は阿護の浦の阿佐部落の人達が行った。
そのため、慶良間諸島の渡嘉敷、座間味の村には、航海に関する話が多く伝えられている。慶良間諸島の旧暦12月1日に行われる御登りには、人々が、「三隻船や嘉例ど、またん嘉例ど。」と一斉に声を揃えて唱えながら登る。これは、三隻の進貢船で福州から出航したとき、普通 は中国の福州から那覇までの航海の数日は十日以上もかかるのに、順風に恵まれて僅か三日で那覇港に帰ることができたことにちなみ、これを嘉例とし、そのときのように順調な航海を願うためだと言う。間で最も福州から那覇までの間で最も困難なのは300キロも離れている宮古島の間の航海だった。
そのために、宮古を出た船は、久米島と慶良間諸島の最も西で標高270メートルの山がある久場島は遠くからでも見えるので、その間を目指して航海した。そこで、進貢船や御冠船がやって来る季節になると、夜にその船が通 っても航路を誤らないように久米島と慶良間諸島では目印になる火を焚き、久米島で船が見えると最初に久米島が狼煙を上げ、その狼煙の合図は、渡嘉敷島、阿波連島、座間味島、渡嘉敷島の阿波連から青年の家のある北山の火立て小屋に引き継がれ、さらに前島から沖縄本島の豊見城に伝えられ、豊見城からは早馬で首里城に知らされた。なお、座間味諸島の北の海中には、ウチャカシと呼ぶ巨岩があるが、これは、御冠船の一行を乗せた船が座間味島の北まで来ると、「ここまで来れば無事に那覇港に着ける。」と航海の無事を神に感謝して、天の神にお茶立てて捧げたが、そのとき捨てたお茶かすが溜まって来た岩と伝えている。

出典:「とかしきの民話」/発行:国立沖縄青年の家

 
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