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君南風と浜下り

君南風と浜下り

 阿波連では3月3日になると漁(いさり)をしに必ずハナリ(※1)へ渡るよ。あそこには祈願をするための祠があるんだよね。昔は帆船だよね。ここ慶良間あたりも久米島も山原船(やんばるせん)で旅をしたよ。帆船は、風向きが悪いと良くなるまで、何ヶ月でも、半年でも思った方向に進めないよね。ある年、久米島の船が、順風に遭わなくなったので、ウフシュロージ(※2)と呼ばれる海域で停泊していた。長い間停泊していても、久米島への順風がなくて、この船には久米島祝女(くめじまぬる)の君南風加那志(※3)という人が乗っていたからね、「女の君南風加那志は船での生活ができないから。」と阿波連の沖にあるハナリに下り、あそこの で、君南風加那志とお供の人たちは暮らしていたそうだよ。すると、3月3日になったので、ここの祝女や根神みたちが、「あの久米島祝女を寂しがらせてはいけないから、ハナリに行って一日中久米島祝女を楽しませて、励ましてこよう。」と、ご馳走を入れたお重を用意して勇んで行ったんだな。それ以前にあそこに神様はいなかったがね、そのときから、3月3日には、ハナリに行くようになったんだ。ハナリの浜には、その君南風加那志が泊った所だと言われている窟(がま)があって、君南風窟(ちんべーやや)と名がついてるよ。

字阿波連・棚原盛助(昭和27年6月7日生)昭和55年5月15日聴取
※1.ハナリ
阿波連の集落の南の沖にある小島。ハレリは離れ島の離れ意。
※2.ウフシュロージ
阿波連近海にある、砂地で透明度が高く深い海域のこと。
※3.君南風加那志
『君南風由来並位階且公事』という文書によれば、神代に三人の姉妹の神がいて、その姉妹のうち、姉は首里の弁ケ岳に住み、二人の妹は久米島に渡って来た。そのうちの一人が君南風となり、久米島各地の神女を統治したが、もう一人は八重山のオモト岳の神になったという。その君南風が中山軍の陣頭に立ち 力でもって八重山オヤケ赤蜂軍の征伐を成功させたのは1500年のことで、その功により君南風は尚真王からチョノマの首玉を褒美としてもった。具志川村仲地には君南風の火の神を祀った君南風殿内がある。もともと、琉球王国の神女組織は、国王の姉妹がなる最高神女である聞得大君(きこえおおきみ)の下に、三人の大あむしられがおり、その下に各村の祝女を統括する三十三君がいた。君南風は、真壁大あむしられに直属するその三十三君の一人であった。ただし、1667年までに三十三君はほとんどが廃止され、伊平屋のあむがなしに、久米島の君南風、今帰仁のあおりやえだけが残った。加那志は尊敬の意を表す接尾語で「・・・様」にあたる。

解説

君南風は、首里王府の任命によって久米島の各地に配置された祝女の統括者であり、度々首里王府にいていて王府の重要な行事に参加したり、教育を受けたりした。しかし、久米島から那覇のまでの約100キロの航海は容易ではなく、このような困難も伴っていった。
特に、東西に広がる慶良間諸島は、航海の風持ちの頼みとする島であると共に、石礁が多いことから思わぬ事故に出会うこともあった。

例えば、ある君南風の王府の任命者と衣装を受領して久米島に船で帰る途中、座間味島の北の座礁して難破し、乗組員は一人残らず死んでしまったが、君南風だけが生き残って座間味島に打ち寄せられたので、海岸の荒々しい岩を這い登っていると、ちょうどそこに銛で魚を取っている漁師がおり、その漁師は、岩を這い登って来る女が持って衣装が素晴らしく美しいものだったので、君南風とは知らずに殺して着物を奪い、その着物を那覇に持って行って高く売ろうとすると、それは高貴な身分の人だけが着ることを許される着物だったので、誰も買う人はいなく、またその着物を座間味に持ちかえって焼いてしまったが、その家には様々な祟りがあったと伝えている。

出典:「とかしきの民話」/発行:国立沖縄青年の家

 
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