ヒラマシ田由来
今から百年前の話だそうです。現在の国立沖縄青年の家の職員宿舎のある所のことですが、そこは昔から田んぼだったんです。ペルリ提督(※1)が沖縄に来たとき、本島に上陸する前に渡嘉敷島の渡嘉志久に上陸したが、島の人々は一行が筋道(しじみち)と言う山(※2)から降りてくるのを見たらしい。村の娘たちも薪を取りに山へ行っているとき、その一行を見たので薪も取らずに村に帰ってきたそうです。
その一行が山を下りて部落内に入ってきたので、村の人たちは急いで避難しました。すると一行は部落内を回ってから今の青年の家職員宿舎のある場所で休み、昼食をしていたらしいが、それを村の人々は隠れて見ていたそうです。渡嘉敷では朝食のことをアサバン、昼倉のことをヒルマシーと言っていたことから、その人たちが食事をしていた所をヒルマシ田と名づけて、その後ヒラマシ田に変わったという話を老人方から聞かされたことがあります。
字渡嘉敷・小嶺盛仁(大正12年2月18日生)昭和54年8月26目聴取
- ※1.ペルリ提督
- アメリカ海軍の軍人。1853年、日本に開港を求め、米国東インド艦隊司令官として来航。同年5月、初めて那覇に入港し、以後、江戸幕府との条約交渉のための基地として考え、4度も入港した。同年6月浦賀に来港し、翌年3月31日、日米和親粂約を締結させ、帰途、7月11日、那覇においても琉米修好条約を締結させた。
- ※2.筋道(しじみち)という山
- 字渡嘉敷の南西にあって、村では3番目に高い山のこと。
解説
沖縄の各地には、この話のように、ペリー来航のときの逸話が伝えられている。中城村には、ペリーの一行が沖縄を測量 するために旗を立てた岩があり、その岩を旗立岩と呼び、粟国島では牛を欲しがって、頭の両脇に指を立てて牛の真似をしたとか、金武村では、沖の岩を見て「エーグ、エーグ」と言ったので、その岩を今でも、エーグ岩と呼んでいるが、その岩には海鳥が多くいて、その卵が沢山あったことから、「エッグ」と言ったのだろとかいう話などである。
出典:「とかしきの民話」/発行:国立沖縄青年の家