学問の世の神様の墓
国文学を伝えた僧の祟り
字渡嘉敷で学問の神様と呼ばれる僧の墓は、渡嘉敷集落の南東、渡嘉敷川が港にそそぐンナトゥヌチビ-(港の尻)と呼ばれる場所のやや上流で、仲獄の北西、里の山の山裾に位 置する平地の渡久地ガーラと呼ばれる場所の保安林の中にあります。ここは、渡嘉敷川の対岸でもあるが、川を渡って30メートルほど山裾に近づいた場所です。 ここは「イホ崎」という場所で、そこには流刑になって島に住んだ大和の僧「鬼才」の墓があるといわれています。『琉球國由來記』に、6月のウマチ-の時に神酒などを供えて祈願したとあります。戦前まで、渡嘉敷の字では、正月の7日と6月の稲穂祭のときには、このいほ崎の学問の神様に村の安全と作物の豊饒を祈願していたが、戦後は稲穂祭のときの祈願はしていません。 なお、ここには、香炉が3個あり、この僧の外に歌・三味線の神の男神、祭りの儀式を教えた女神が祀られているとする伝えがあります。現在、この拝所は、字の人達からは、学問の神様と呼ばれ、高校や大学を子供達が受験するときにも祈願します。 字の伝えによれば、ここに葬られている人は、大島出身の学問僧で、この僧が来るまで琉球では漢文だけを用いていたが、この人が薩摩藩から派遣されてきて国文学を教えたので、琉球でも和文が出来るようになったといわれています。 また、この僧侶は渡嘉敷に来ると米祝女殿内(メーヌンドゥンチ)で暮らし、島の人から「学問世の先生」と呼ばれていました。そのころ根神殿内(ニーガンドゥンチ)に非常に奇麗なニーガングヮー(根神小)という娘がおり、その女性と恋仲になり、昼は米祝女殿内で島の人に学問を教え、夜になるとこっそり根神殿内に通いました。 島の若い男達は、この僧侶を妬みこの僧が根神殿内に夜通うとき、必ず途中の中丹屋という家の犬が吠えるので、その犬の鳴き声がしたらみんなで僧侶を殺そうと相談し、中丹屋の後ろに隠れて待ち伏して、通 りかかったこの僧侶を殺してしまいました。その死体を渡嘉敷川に流したところ大雨が降り、死体は渡嘉敷川が海に注ぐ、ンナトゥヌチビ(港の尻)と呼ばれる河口の芦が生えた所に流れ着きました。 村の人達は、その死体を見つけ、このままにしては置けないと、その近くの山手の方に埋めたのです。ちょうどその年にコレラが流行し、村中の若者のほとんどが次々に死んだので、ユタを雇って聞いてみました。するとその先生がユタの口を借りて、「このコレラは、私の祟りだ。もう一度葬り直して、私を祀ってくれ。今度葬り直すときには、南京豆を焼いてそれも一緒に埋めなさい。私の思いが晴れていなかったら、その南京豆の芽が生え、もう一度私は世に出て村人に祟るだろう。」といったといわれ、村人達は、それを聞くとお墓をウシクルシモー(牛殺し毛)に移し、その墓に南京豆を焼いて入れ、その先生の祀ることにしました。 ところが、その墓から南京豆が生え、若者達が続けて死に、村では死人が出てもその死体を捨てに行く人さえなくなって、家族だけで葬式をすることになりました。そこで、もう一度ユタを雇って聞くと「私は村人に学問を教えてやり、何も悪いことをしないのに殺され、雨が降れば水に漬かる場所に葬られている。その上、ここからは薩摩の船が見えるので、その度に辛いからあの船の見えないところに葬ってくれ」というので、墓を港の内側の場所に移し、墓の向きも港とは逆の西向きに作り、拝所を建てたということです。