北ウタキ
伝承・渡嘉敷のはじまり
北ウタキは、渡嘉敷島の北にある標高208メートルの北山とよばれる山の頂上ちかくにあります。字では、ニシウタキと呼んでいるが、この場合のニシは、北を意味する言葉です。現在北ウタキのある渡嘉敷島の北山の頂上一帯は、国立沖縄青年の家の敷地になっており、北ウタキは、この国立沖縄青年の家の宿舎の東側に、イッシピ川原の上流に当たる谷間があり、その谷間をへだてた森の頂上のやや下方の平坦地にあります。
北ウタキは、字渡嘉敷のウタキであるが渡嘉敷島の住民全体が崇拝するウタキでもあり、昔は渡嘉敷間切のさまざまな年中行事のときに神女が祈願するウタキでもあったのです。
伝承による村の始まり
大昔に沖縄本島から(ニライカナイからともいう。)最初に渡嘉敷島に移住した人達が黒島にきたが、黒島では住むことができず、渡嘉敷島の北にある儀志布島にうつり、さらに渡嘉敷島でも儀志布島に近い北山の北ウタキに移住したと伝えられています。すなわち、この北山一帯は、祖先の居住地として信仰されているのです。
その後、北山から渡嘉敷港の入口の北にある城(グシク)と呼ばれる岩山の頂上にある平地と、現在の字渡嘉敷の地の南にあるサトゥ(里)と呼ばれる山の中腹の傾斜地にも別 れ住むようになりました。その頃、西御獄、グシク、里の三箇所に別れて住む人達はときどき協議する必要がありました。そこで、現在の渡嘉敷神社の裏にあるクミチジ(久米頂)山に集まって話合いをしたと伝えられています。
現在のクミチジ山は、南北が700メートル、東西が230メートル、高さ37.5メートルほどの丘になっていますが、当時クミチジ山は渡嘉敷の入江の奥にある小島でした。北御獄と里からは山や谷伝いにおりてこの小島に着いたのですが、グシクからは筏で渡って来たと伝えられています。
その後、北御獄に住む人達の一部は、現在の字渡嘉敷の白瀬山の白瀬御獄に住んでいるうちに、渡嘉敷の入江が次第に陸地になり、人が住めるようになったので、クミチジ山近くの土地に住み、渡嘉敷の字がつくられたということです。